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“そっとしといてくれ

でも、そばにいてくれ。”オダギリジョー主演の『おかしのいえ』というドラマで嶋さんという流行らない銭湯を経営してた中年男性のことば。不景気で銭湯をたたむ決意をし、就職するしかなくなって、50代でありながらも就活するんだけど中々上手くは行かず。落ち込んでいたとき、いつもオダギリジョーの家の庭でダラダラと過ごすお馴染みメンバーのひとりも一緒に就活をしていたので、いつも嶋さんを励ましてくれてた。彼はいつも、どこかパッとしない“ダサさ”があって。だけどこころの優しいニートの青年。(ニートだったと思う)彼はまだ若いということもあり、就職できるんだけど嶋さんは中々上手く行かない日々。嶋さんはこころが不安定になり、ボーッと放心状態で危うくトラックに轢かれそうになってるところを、青年は助けて代わりに亡くなった。いつまでも、ダラダラといつまでも、変わらずにいつまでも、昼間から駄菓子と誰かの動きをアテにつまんで、この庭で。いつまでも、馴染みのメンツで過ごすんだと思ってた。だけど時間は、社会は常に動き、流れていて。このままじゃダメだとみんな感じていて。誰かが動き出し、それにあてられてみんなそれぞれ動くんだけど、勿論上手くは行かなくて。その庭は帰る場所のようにずっとあるんだと思ってた。青年が亡くなったことで、いずれ来るであろう予感してたその日々の終わりはやってきた。ひとりがなくなり、3人となって。嶋さんを励まそうと、残りの2人も青年の死の現実を受け止められず、癒せぬままだけど、なにかと考えて色々やってみるけどうまいこと出来なくて。当然寂しさも悲しさも、罪悪感も未来への不安も、何も埋められなくて。そんなとき、庭で嶋さんが放ったことばだ。“そっとしといてくれ。でも、そばにいてくれ。”こんなに毎日顔を合わせているのに、他人のこころはわからない。この距離でわからないんだぜ?遠く離れた他国の人たち。中東での絶えない戦争で傷付いた人たちのこころなんて到底分からないよね。みたいなことを、新聞の記事を見ながら言ってた画を覚えてる。なんだかとても深くて。だけど、悲しいけどそうだよな、とも思った。ことばも行動もどこか上滑りで安っぽくて。だったらもう、ただ静かにそばにいてやることが精一杯なんだって。この距離をもっと意識しよう。一年ほど前のドラマで、このことばだけはとても大切なんじゃないかと紙に書いて机に貼ってたくらいだ。もっと上手に距離を取ろう。

幼馴染みの君

君とは気が合う。そう気付いたのはいつ頃からか。学生時代のバイト先で偶然一緒になってから。それからずっと、年に数回会って近況報告をしたり昔話をしたり、音楽の話や、恋愛の話、仕事の話いろんなことを話すんだ。ごはんを食べたり、ライブに行ったり。歩いてすぐそこの距離に住んでいて、気兼ねなく声をかけられるお手軽な存在でもある。思えば君はいつも近くにいた。小学生の頃も中学の頃も塾にもそしてバイト先にも何故か近くにいたんだ。だから、わたしの見ていたものは君も見ていたりする。けれど同じものを見ていても、感じ方は全然違って見ていたりもするから、昔話も面白い。君は焦ることなく、自分をきちんと肯定していてそれがわたしにはとても素晴らしいと感じる。弱いところも、自分の良さも、ちゃんと分かってる変わりたいと思うこころ尊敬する人の存在君はきっと変われる。かっこいい大人になれる。わたしもきっと変われる。わたしはわたしのテンポで行くよ。君は君のテンポで。幼馴染みという存在は、いる人もいない人もいて、いたとしても存在だけで、その距離感や人間性の合う合わないもいれるとこれは、幸せなことだと感じる。今まで気付かなかったことも、今はちゃんも噛み締めたいと思う。わたしはひとつ宝物を与えてもらえてるんだ。いつも、周りに支えられてわたしは存在していると、改めて思う。ありがとう。君の幸せを祈っているよ。忘れてたけど誕生日おめでとう。

2月と宿命

2月は警戒している。寒いのが苦手なわたしには単純に寒さゆえに気分が重いのだけど、それだけじゃない。2月には苦しい思い出がいくつかあるのだ。そして今年もそれはやってきた。母は鬱病らしい。この1ヶ月程。日々のあの後ろ姿は、見ていても苦しかった。寒々とした冬の林の木々を眺めていつも鬱々とこたつに座っている。母は、寂しがりやで、常識人。働き者で真面目。勘が鋭く、慎重で他人に心を簡単に開かない。だけど表面上は愛想が良く誰とでもうまく渡り合える人。流行にも敏感で、年齢とは思えないセンスと若さを維持している。一言で言うと、“女子高生”のよう。放課後は雑誌に載ってる流行りのお店で友達とお茶をし、モテるので異性ともうまく付き合いつつ、バイトで稼いだお金で気ままに遊ぶ。そんな姿がとても似合う。事実、母がわたしの年齢くらいの頃はそういう生き方だったらしい。結婚出産し、専業主婦となり、常識的な家庭を作る。それが母の描いたものだった。ところが現実は、離婚し2人の女の子を一人で育てる始末。ただ毎日を誠実に、一生懸命働き、子を育て、生きた。そうして25年が過ぎたんだ。気がつけば長女は28次女は26。どちらも国家資格を持ち、望んだ通りこの時代の中で食いっぱぐれのないレールに乗った。両方ともまだ良縁の話はないけれど、それぞれ人生に希望を見出し、それぞれの人生を生きていこうと新しい方向を向いて意気込んでいる。そんな娘達を見て、母は自分の現在地、そしてこれからの未来を重く感じている。その原因を、わたしはこう見る。・確実に感じる心身への【老いへの恐怖】と・祖母の存在も含めた【未来への不安】・無我夢中で生きてきて、ふと目的が無くなったような大きな【虚無感】・女子高生のようなセンスと若さが求めている【こころと現実のギャップ】・町内会での山登りや、朝から公園で体操しているような『シニア』にはまだ少し遠く、かといって40代ほど仕事に精を出せるほどの体力もない。その絶妙などちらにも属せない、【転換期】で、今後の生き方に心身共に揺らいでいるわたしはそばで見ていて、こう推測する。母も今まいごなんだ。どこへいったらいいのかわからない。精神科に行くと現実として突きつけられる“診断”母のような現実的で常識人は尚更受け入れ難いものだろう。祖母も母もわたしも辰巳天冲殺。祖母は、生年母は、生月わたしは、その2つを合わせ持つ二中殺。わたしはアダルトチルドレンだと、この4年間でようやく感じ、理解し、納得した。アダルトチルドレンは親から子へと、遺伝する。これは偶然なんだろうか?わたしには何か生まれる前から決められた因縁があったように思えてならない。祖母も母も、わたしから見るととても気が強く、他人に依存せず、自らが家庭を引っ張る力を持っているように感じていた。それは実際そうだ。祖母は今もド田舎でひとりで暮らすことを望み、母は結婚後の計画は希望通りにならなかったが、女手一つで2人の女の子を育て上げた。どちらも、わたしは並々ならぬ努力と強さがあってのことだと思う。祖母も母もそれが出来る器量を持って生まれてきたんだろうなって思う。さて、これから。母も、わたしも、揺れている。わたしも自分の現在地が転換期だと感じる。何かが終わって、新しく何かが始まる予感を、一年前から感じていた。人より冬が長く、冷たい土の中にいたけれど、ようやくそれが終わる。決して“終演”ではなく、“第3楽章の終わり”を感じていた。あくまで音楽はまだ終わらない。今度こそ、わたしは自分で未来を描こうとしているんだ。どこへ行くのか?何がしたいのか?どうなりたいのか?良いイメージを具体的に。想いは叶う。今だよ、と。わたしはあちこちに書いた。なんども自分に言い聞かせていた。そして、自分がこうして前を向き立ち上がる時、家族が落ちることもわたしは一年前から予感していた。きっと、大きな地震だったり祖母や母に何かが起こると。妹だけは別だ。彼女は別格。この因縁とは外れているけど、健全で強烈。だから、淡々と。淡々と、乗り越えようね。わたしを守り育てるのは、母じゃない。わたしだよ。そして、わたしにはいつも、かけて欲しいことば、欲しい温もりを与えてくれる他人が、側にいる。それこそがわたしの宝物。わたしの強み。彼らのことを考えると彼らにありがとうを言いたい。大丈夫、幸せにならなきゃ、と思えるんだ。宿命通りだよ。淡々と、淡々と乗り越えよう。わたしもまいごから抜け出せる。そして母も、きっと抜け出せる。一緒に転がらない。不幸を演じなくていい。罪悪感も感じなくていい。母にことばは要らない。行動で、何をしてやれるのか考えつつわたしはわたしの、未来を描く。それでいいんだ。淡々と、淡々と。